5.日本の近代諷刺雑誌

浮世絵版画と新聞の合体:錦絵新聞

錦絵新聞は新しく聞き知った出来事を伝える文章と、「錦絵」と呼ばれた浮世絵版画が合体した出版物です。明治のはじめ東京で流行、大阪にも波及して「大阪錦絵新聞」や「大阪新聞錦絵」など各紙が発行されました。強盗、殺人、心中、奇談などのさまざまな市井の事件があたかも芝居の一場面のように描かれています。

当館では1875年発行の約20点の錦絵新聞(「大阪錦画新聞」「新聞図会」「大阪錦画日々新聞」「日々新聞」)を所蔵しています。


日本最初期の諷刺雑誌:「ジャパン・パンチ」と「団団珍聞」

「ジャパン・パンチ」

1861年(文久元年)に「イラストレイティッド・ロンドン・ニューズ」の美術特派員として来日したイギリス人チャールズ・ワーグマンが翌年、母国の諷刺画雑誌「パンチ」を模して横浜居留地で発行した日本最初の漫画雑誌。これを契機にして日本の漫画は新聞・雑誌というジャーナリズムの中で発展していきました。また、本誌のなかで使用した「ポンチ」ということばが明治に入り、これまでの戯画とは違う、時局諷刺漫画として認知され流行しました。当館は1867-80年の合本版を所蔵しています。

「団団珍聞」

1877年(明治10)に広島出身のジャーナリスト野村文夫によって創刊された週刊の時局諷刺雑誌で、「ジャパン・パンチ」と同じくイギリスの「パンチ」に影響を受けています。本多錦吉郎、小林清親、田口米作らが諷刺画を寄稿しました。1882年発行のものを中心に約40冊を所蔵しています。


稀代のジャーナリスト宮武外骨とその雑誌の数々

「頓智協会雑誌」

1887年(明治20)に宮武外骨が初めて作った時事諷刺雑誌(月刊)で、ユーモア・エスプリ・ウィットを研究する「頓智協会」の会報誌。明治22年(1889)2月28日発行の第28号に掲載された安達吟光の「大日本頓智研法発布式」が不敬罪に問われて発禁となり終刊しました。発禁になった第28号を含め10数冊を所蔵しています。

「滑稽新聞」(のちに「大阪滑稽新聞」に改題)

厳しい官憲の目を避けて大阪に逃れてきた宮武外骨が1901年(明治34)に発行した諷刺雑誌(月2回刊)。類似本が出回るなど漫画雑誌ブームの端緒となりました。

1908年(明治41)10月20日発行の「自殺号」をもって「大阪滑稽新聞」に改題。1909年(明治42)末にはジャーナリズム全体が閉塞状態に陥り、さらに大逆事件について述べた第55号が発禁となって1911年(明治44)2月に完全に外骨は滑稽新聞社から退きます。やがて1913年(大正2)9月15日号(第116号)で終刊しました。

当館には、自殺号以前の約20冊と「大阪滑稽新聞」改題後の約100冊があります。

「絵葉書世界」

日露戦争頃からブームとなった絵葉書に着目した宮武外骨が1907年(明治40)5月1日に創刊した雑誌で、切り離せば絵葉書として使うことができました。毎月一冊づつ「滑稽新聞定期増刊」として発行され、その後「大阪滑稽新聞定期増刊」となってからは1909年(明治42)6月1日まで続きました。当館には絵はがき状のものが約150種類あります。

「スコブル」

15年間住み慣れた大阪を後にして上京した宮武外骨が1916年(大正5)-1919年(大正8)に発行した月刊誌。「スマシこんだ事、オツに気どる事、十人並の事でなく、少しカタブク事、カタヨル事、不平な事、偏固な事を書いて、そして読者に頭を少し偏(かた)ぶけさせて、ハテナと云わせるのが第一主義であって、第二主義としては、スコブル施毛曲りの事を載せて、スコブル好評を博し、スコブル多く売って、スコブル異彩ある権威を発揮したい」と誌名もユーモアに富んでいます。当館では創刊号から第12号までを所蔵しています。

「奇抜と滑稽」

1927年(昭和2)に島屋政一が第2号まで宮武外骨を主筆に迎えて発行(外骨の執筆は第4号まで)した雑誌。翌年5月1日発行の第13号より「滑稽新聞 キバツとコッケイ」と改題されました。創刊号ふくめ6冊を所蔵しています。


最長寿を誇った近代漫画雑誌:「大阪パック」

「東京パック」の人気に刺激されて1906(明治39)年11月3日に創刊された諷刺雑誌。当時大阪朝日新聞社で挿絵を描いていた画家・赤松麟作が編集に携わり、弟子たちが漫画を描きました。1943年(昭和18)に「漫画日本」、次いで1947年(昭和22)に「読物と漫画」と時局とともに改題され内容を変更してきましたが、近代漫画雑誌としては1950年(昭和25)まで40年以上にわたって発行され、最長寿を誇っています。

当館では13冊を所蔵、そのうちのほとんどが1908年に発行されたものです。


美術としての漫画をめざす:「トバエ」

1916(大正5)年12月1日に版画同人誌「方寸」の主要メンバーであった版画家・石井柏亭、その実弟で画家・彫刻家の石井鶴三、当時朝日新聞社、読売新聞社でそれぞれ挿絵を担当していた岡本一平、近藤浩一路らが中心となって美術としての漫画をめざして創刊された雑誌で、創刊号を含め6冊を所蔵しています。


フランス人が捉えた日本の風俗:ビゴーと「TOBAE」

1882年(明治15)に来日したビゴーは、画学教師として働きながら日本人の風俗を銅版画集『おはよ』『あさ』で描きました。教師を辞してからは「団団珍聞」や「改新新聞」などに挿絵を寄稿するほか、雑誌「TOBAE」「日本人の生活」や画集『正月元旦』『極東にて』などで近代国家に生まれ変わろうとする日本の姿を捉えました。

彼が画集や雑誌に納めた版画を約460点所蔵しています。


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